言葉にこだわると、「言葉狩り」と非難する人がいますが、けっしてそういうことではありません。
ある行政主催の「両性の自立と平等をめざす」と題する集会に招待され、参加したときのことです。集会の開催にあたり挨拶に立った方が、いきなり「父兄(ふけい)のみなさん」と発言したことがありました。「父兄」という言葉の中に女性は含まれません。「父兄」とは、かつて女性が権利を奪われた状態におかれた家制度の中で、使われてきた言葉です。その場でだれも指摘はしませんでしたが、私はやはり話さなければと思い、その会が終了した後に、主催者と「父兄」と発言した方に私の思いを伝えました。「父兄」という言葉が、私には痛かったからです。そして、私のそんな思いを分かってもらう必要があると思ったからです。
言葉にこだわると、「言葉狩り」と非難する人がいますが、けっしてそういうことではありません。私たちは思いを言葉で伝えます。だから、差別しようという気持ちはなくても、その言葉で相手には伝わります。だから、きちんと思いを伝えたいと思えば、言葉にこだわるのは当然のことです。女性を差別する気持ちはなくても、「父兄のみなさん」と言われると、そんな意識を持った人なのかなと聞いた方が受け取り、それが痛いと感じる人が出ても仕方がありません。性による生きづらさを無くしたいと願い、この集会に参加していた人たちは、この「父兄」という言葉をどのように聞いたのだろうかと思います。それ以後の話が全く耳に入らなかった人もいたのではないかと思います。以後のどんな立派な話も、しらじらしく聞こえたのではないかと思います。そして、そんなことを聞く人の問題にしてはならないだろうと思うのです。

言葉は「思い」を表します。ですから、これまで私たちが進めてきた「部落差別をはじめ、あらゆる差別を解消していく教育」の中で、私たちは言葉にもこだわりながら実践や話し合いをしてきました。「父兄」や「父母」と言わずに「保護者」と言おう、「手短に」と言わずに「端的に」と言おう、「足がない」と言わずに「交通手段がない」とちゃんと言おう、「手がない」ではなく「方法・手段がない」と言おう、「片手落ち」と言わずに「バランスを欠く」や「不公平」と言おう、「目がない」ではなく「夢中」や「可能性がない」と言おうと。
「障害」や「健常」という言葉についても、「障害」をひらがなや他の言葉に変えれば私たちの中にある差別意識は解消に向かうのか、その言葉が持つ差別の現実と向き合い、私たちはどうその言葉と対するべきなのかなど、話し合いを重ねてきました(※注参照)。
このように挙げていけばきりがありませんが、大切なのは、私たちは普段から言葉の持つ差別性を意識しながら、言葉を大切に使わなければならないということです。それでも、思いが至らないことはだれにでもあることで、そんな時に、自分が発した言葉が「痛い」と感じる人から指摘されたら、そこから学べばいいのだと思います。言葉を大切にするとは、ただ「言葉を言い間違えないようにする」とか、逆に「その言葉を使えばいい」ということではありません。なぜその言葉が痛いのか、なぜこの言葉は使いたくないのか、では、なんと言えば「思い」はちゃんと伝わるのか、そんなふうに皆が学びを重ねていくことが、全ての人の人権が大切にされる社会につながる大切な力になるのだと考えます。(時枝)

※「障害」「健常」の表記について〔県人教研究課題より〕
「障害」
※付随する言葉も「」の中に入れます
例「発達障害」「障害者」
例外 団体名や病名は「」をつかいません
これまで「障害」の表記については、県人教内でもたくさんの意見交換を重ねてきました。「障」も「害」もどちらも気になるという会員の意見を尊重して、「しょうがい」とひらがなで表記した期間もありました。しかし、ひらがな表記にすることは、「障」や「害」の漢字の中にある私たちの「障害」に対するマイナスの意識や差別の現実を見えなくするだけで、その解消には繋がらないのではないか、痛みを伴う漢字で表記することで、あえて私たちは私たちの中にある「障害」観と向き合うべきではないのかということから、県人教では漢字の「障害」表記にこだわるということで、一定の方向性を出しています。
県人教では、私たちの内外にある「障害」観を問い続けていくためにも、改めて「障害」と「」をつけて表記していきます。
※けっして漢字表記を強制するものではありません。それぞれの思いで、ひらがな表記や他の表記を選択してください。