人権学習は誰かのためではなく、自分の生き方を問う学習です。
だから人権学習は厳しいのです。だから熱いのです。

 大分県のある高校で「人権学習をするのはお前がおるけん?」と被差別部落出身の子どもの机に落書きされたことがありました。「差別されるお前がいるから自分たちは人権学習をしなければいけないんじゃないのか?」という投げかけでした。
 差別される人がいるから、差別される人のために、学校や職場や地域で人権学習はされているのでしょうか。いいえ、人権学習をするのは差別される人のためではなく、私たち一人ひとりのためです。人権の問題は誰にとっても自分自身の問題だからです。


 一人の人間としてしあわせに生きたいと願う、誰もが持つそんな当たり前の願いを叶えるために人権はあります。人間の歴史において、人間が人間として生きていくために欠かすことができない人権を、ほんの一部の権力を持つ人たちのものから取り戻すためにどれほどの努力を要し、そして今も闘いを続けているか、説明するまでもありませんね。そのようにして少しずつ少しずつ手に入れてきた、私たちにとって大切な人権も、戦争やいじめ、差別によって簡単に奪われてしまいます。人権は目には見えませんが、それほど私たち一人ひとりにとって大切なもので、だから私たち一人ひとりが人権について考え、学び、人権獲得のさらなる歩みを進めていかなければいけないのです。人権について考え、学ぶことは決して人ごとの話ではなく、全ての人にとって自分自身のためであり、全ての人のためなのです。(時)

《上原仁郎さんのことば》
子どものためにではなく、子どもとともに歩いている自分を問うことが大切なのです。人権教育は誰かのためではありません。かわいそうな子どものためではありません。アイヌの人を前にして、部落の人を前にして、子どもを前にして、自分がどう生きようとしているのかという問題だと思います。だから人権教育は厳しいのです。その厳しさを担おうとする人の決意と行為がエネルギーとなり、そのエネルギーがあるからどのレポートも熱いのです。人の世に熱あれとはそういうことです。

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