「私はどんな子どももけっして特別扱いはしません。私は差別なんかしませんから。」時々、教育現場で聞く言葉ですが、「特別扱いをせず、みんな同じにすること」が本当に平等なのかどうか、私たちはよく考えなければなりません。
考えてみてください。私たちの前にいる子どもたちの中には、虐待、ネグレクト、そんな中をなんとか生き抜いている子どもたちがいます。自分のために頑張ろうとさえ思えないところに置かれている子どもたちもいます。また、厳しい家庭環境の中にあっても、懸命に前を向いて歩こうとしている子どもたちがいます。勉強につまづいた子どもたちがいます。教員やおとなの言葉がなかなか届かない子どもたちがいます。足の速い子どもや遅い子ども、理解のはやい子どもや時間のかかる子どもがいます。身体の大きさも体力も食べられる食事の量もスピードも、一人ひとりそれぞれです。一人ひとり、見ようとしなければ見えないところに子どもたちの現実があり、そんな現実と私たちがどう関わろうとしているのかがいつも問われているのです。
ですから、学校はグレートイコライザー(偉大なる平等化装置)と言われ、子どもたち一人ひとりのそんなデコボコを補い、平等にするところで、弱い者も強い者も、ひとりの人間としてそれぞれのかけがえのない命を懸命に生きていける力をつけるところなのです。海には浅いところと深いところがあり、深いところにはたくさん水を注いでやらなければ、同じ水面の高さにはなりません。ですから、一人ひとりに応じて、時にはしっかり「特別扱い」をすることで皆が平等になるのです。「特別扱い」をするとは、個に応じた必要な対応をするということで、それは甘やかすということでも、ひいきするということでもありません。個を見ず、誰にも同じにすることは、差別の現実を個人の責任として個人に押し付け、差別を肯定することにしかなりません。これを「形式的平等」と言います。
「形式的平等」と「平等」を、私たちは間違えてはなりません。(時)